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(1)まえがき

 先にインターネット上にアップした「心はどこにあるのか?」、並びにその第4章第3節を重点的に解説した「私とは何か?」という論文で、「脳の活動によって生み出された世界を心の世界とする」と定義しました。その定義のもと、目の前に見えている自らの身体を含め、目の前に見えている世界は心の世界である、と理詰めで説明しました。更には私たちが「私」と思っている存在も自らの心の世界の中に内在する存在であるという結論を導きました。これらは物質の世界が存在し、肉体としての身体が存在するという前提のもとでの結論です。

 もっとも多くの人々にとってそれは受け入れがたい結論だと思います。その一番の理由は、目の前に見えている自らの身体は肉体としての身体であり、その身体の存在する空間は物質の世界であるという思い込みにあると思われます。これらの論文に対して幾つかの感想、というよりも反論をいただきましたが、その多くはこの結論にたどり着く論理を反駁できるものではありませんでした。

 上述の結論にたどり着くためには、「目の前に見えている世界は物質の世界ではなく、脳の活動によって生み出された世界である」ということの理解が必要不可欠です。それには「見えるとは何か?」ということの理解が出発点であり、その本質が理解できればあとは理詰めで上述の結論にたどり着くことになります。逆に、それが理解できなければ、「何と愚かな考えか」という感想をお持ちになることと思います。

 そこで今回の論文では「見えるとは何か?」という点に的を絞って詳しく説明したいと思います。なお私が主張するところは上述の2つの論文に詳しく記してありますので、この論文で「目の前に見えている世界は物質の世界である」という常識に疑問を感じてもらえたら、そちらも併せて読んでいただければ幸いです。論文のURLは「(6)あとがき」に記しておきます。

言葉の定義

 本題に入る前に言葉遣いについて定義しておきたいことが一つあります。それは、例えば上述にもあるように「目の前に見えている世界」という表現です。この「目の前に」という意味は、目を開けることで私たち(私、あなた)の目の前に広がる色彩豊かな世界を表しています。この他にも例えば、「目の前の世界」というように「目の前の」という表現も使われますが、何れも同じ意味で用いることになります。


(2)「見る」と「見える」の2つの動詞

 目を閉じれば目の前の世界は見えなくなり、目を開ければ再び見えるようになります。「当たり前のことではないか」と思われるかと思いますが、常識と思われているところにこそ真実は隠されているものです。

 見るという行為には「見る」と「見える」という2つの動詞が使われます。「何を見ていますか?」と問われれば「目の前のコーヒーカップ」と答え、「何が見えますか?」と問われれば「目の前のコーヒーカップ」と答えます。いずれも目の前に見えている同じコーヒーカップに対して使われていることに注意が必要です。つまり、目の前のコーヒーカップは「見ている対象」であると解釈されているのと同時に「見えている対象」とも解釈されているのです。

 「見る」と「見える」という2つの動詞について、「見る」は動作を表し、「見える」は状態を表すという考えがあります。確かに一面は捉えているように思えますが、どちらの動詞も何故同じ対象に対して使われているのかを説明できているようには思われません。

 確かに「見る」という動詞の意味は明らかです。図1は物質の世界を表したものです。ある人物が自らの肉体としての身体の前に存在する物質としてのコーヒーカップを見つめている情景を表しています。この図において、物質の世界の対象に向けて肉体としての身体の眼を対象に向けている動作を指して「見る」と表現していることになります。そこには何ら疑問を差しはさむ余地はありません。

 もっともそれは物質の世界での話であり、その限りにおいては、何ら問題はありません。しかし、「目の前に見えている世界」を物質の世界であり、目の前に見えている自らの身体を肉体としての身体であるという解釈のもとで「見ている」と定義することには問題があります。

 それを表したのが図2で、私たちの目の前に見えている世界を表しています。この図において、「身体の一部が示されている人物が目の前のコーヒーカップを見ている」と解釈することには問題があります。理由はのちほど「(5)見えるとは何か?」の項で説明することになります。

 ではもう一方の「見える」とは何を意味するのでしょうか。「対象が見えるようになる」までの過程を確認してみましょう。まず物質の世界に対象が存在する→そこで反射した電磁波が眼に到達する→眼の凸レンズにより網膜に像が結ばれる→その像が電気信号に変換されて中枢に送られる→対象が見えるようになる。この一連の過程を通して始めて「対象が見えるようになる」と解釈されます。事実、目を閉じれば対象が見えなくなりますが、それは網膜に像が結ばれるという過程が遮断されるからです。

 ここで問題です。目を閉じれば目の前の世界は見えなくなり、目を開ければ再び見えるようになります。目を開けることで何が生じるのかと言えば、網膜に外界の像が結ばれることを意味します。網膜に像が結ばれなければ目の前の世界が見えることはない、という考えに異論はないと思います。すると網膜に像が結ばれることが原因で、その結果が目の前に見えている世界ということになります。表現を変えれば、網膜で得られた情報が中枢に伝えられ、そこで生じる現象が目の前に見えている世界であることになります。

つまり、「目の前に見えている世界は脳の活動によって生み出された世界」であり、物質の世界ではなく、言わば「見かけの物質の世界」であることになります。「見える」という言葉に置き換えてみれば、「見えるということは目の前の情景そのものである」ことになります。

 これらの結論に対して納得できない人がほとんどだと思います。その一つの原因は「目の前に見えている世界は脳の活動によって生み出された世界である」という考えであり、いま一つは「見えるということは目の前の情景そのものである」という考えにあると思います。前者はともかく後者については一般常識と同じことを言っているだけではないかと思われるものと思います。しかしこれは、表面上は一般常識と似てはいるもののまったく異なるものです。それものちほど「(5)見えるとは何か?」で明らかになります。

 前者の結論に対して納得できないその一番の原因は、自らの身体の解釈に由来します。つまり目を開ければ目の前に色彩豊かな世界とともに自らの身体が現れる。自らの身体は肉体としての身体である。肉体としての身体は物質の世界に存在する。その世界は目を開けることで見えるようになる。従って目の前に見えている世界は物質の世界である、という常識としての理屈が用意されていることにあります。

 「目の前に見えている世界は物質の世界ではない」という結論は、なんとも馬鹿げた結論であり、原稿を読み進めるのを止めようと思われた人も多いかと思います。しかし、今しばらくご辛抱いただければ幸いです。


(3)見かけの物質の世界

 「目の前に見えている世界は物質の世界である」とするといろいろな矛盾が生じます。前述の論文「心はどこにあるのか?」の第3章第1〜3節で、色、2重像、逆さの網膜像などの反例を挙げて説明していますが、ここでは次の2つの反例を紹介しておきたいと思います。

<視力表についての反例>

 近視の人はよく分かると思うのですが、眼鏡やコンタクトレンズを外せば、視力表のランランドルフ環の切れ目の向きはぼやけてよく分かりません。それは網膜に映った像がぼやけているからであり、物質の世界の視力表そのものがぼやけているわけではありません。網膜に映ったぼやけた像が原因であり、目の前のぼやけた世界はその結果ということです。つまり、目の前の世界は見るという行為の結果であり、脳の活動によって生み出された世界である、ということになります。

 このような結論に対して「そんなことはあり得ない」という感想をお持ちになると思います。しかし、目の前に見えている世界が物質の世界だと考えると、根本的な矛盾が生じることになります。つまり、目の前に見えている世界が物質の世界だとすれば、物質の世界そのものがぼやけていて、私たちにはぼやけた世界が見えていることになります。繰り返しになりますが、物質の世界はぼやけてはいません。

 遠視の人にも同じことが言えます。手元の文字がぼやけているのは、網膜に映った文字がぼやけているからであり、物質の世界の文字そのものがぼやけているわけではありません。納得のいかなさは、のちほどお話することになりますが、自らの身体に伴う「私」という存在にあり、「私が見ている」という想いに原因があります。この点についてものちほど「(5)見えるとは何か?」の項で説明することになります。

 視力のよい人たちに対しては、色の矛盾の例を次にお話ししたいと思います。

<色についての反例>

 「目の前に見えている世界は物質の世界だ」と考えている人にとって納得のいかないことかもしれませんが、物質の世界に色は存在しません。物質の世界の対象からは電磁波が発せられているわけですが、電磁波にはもちろん色などは付随しません。それが網膜に到達し、視細胞の一種である錐体細胞を刺激し、それが電気信号に変換されて中枢に伝えられた後に始めて色は生じます。その色はどこに見て取れるかと言えば、目の前に見えている世界です。網膜に結んだ像、正確には中枢での情報処理が原因であり、目の前に見えている色彩ゆたかな世界はその結果です。つまり、目の前に見えている世界は物質の世界ではなく脳の活動によって生み出された世界であることになります。

 納得しがたい話であることはよく分かります。この結論に同意できないものの「反例の示すことに疑問」を感じた人は、これら2つの反例をどのように説明するかを、ご自身でも考えていただきたいと思います。

 目の前の世界が脳の活動によって生み出されるということにより、それは脳の情報処理能力の制限を受けることになり、物質の世界を正しく再現できていないことがあります。例えば時間に関しては、情報処理の速度の点で限界があります。0.1秒単位で表示されているタイマーを見るとき、タイマー自体は確実に0から9までの数字を画面に繰り返し表示しています。しかし私たちはそのすべてを読み取ることはできません。簡単に試すことができます。ストップウォッチで表示されている数字を幾つ読み取れるかを試してみてください。精々4つか5つ程度ではないでしょうか。脳の情報処理の限界が見て取れます。

 空間に関しては、一見外界の情景がはっきりと再現されていると思われていますが、そうではありません。はっきりと再現される範囲はほんの一部分に過ぎません。試しに目の前に人の写真を置いてそれを見てください。当然はっきり見えてそれが誰であるかが分かると思います。次に、視点を写真から離してみてください。ほんの少しずらしただけで、誰の顔か判断がつかなくなると思います。正しく再現できているのはほんのわずかな範囲でしかないことが分かります。網膜の視細胞の密度が高いのは、中心窩と呼ばれるごく狭い範囲に限られているからであり、情報処理の限界が見てとれます。


(4)自らの身体の解釈

 「見る」、「見える」の2つの動詞の理解には、自らの身体の意味を正しく理解しておく必要があります。目の前に見えている世界が「見かけの物質の世界」であることは分かりづらく、納得のいかないことかと思います。それよりも更に納得しづらいのは目の前に見えている自らの身体の解釈です。詳細は論文「心はどこにあるのか?」の第3章第3節に詳しく解説していますので、ここではごく簡単な説明に留めたいと思います。

 目の前の自らの身体が肉体としての身体である、という想いは根強いと思います。それは当然のことです。自らの意思で動かすことができ、目の前の対象と関わることで、視覚、聴覚、触覚、圧覚、温覚などの様々な感覚を得ることができます。

 例えば目の前のコーヒーカップからコーヒーを飲むとき、自らの意思で手をカップに近づけます。カップをつかむことで陶磁器の硬さ、温かさを知り、一口飲むことでコーヒーの香りと独特の苦みを味わうことになります。

 論文の前提として肉体としての身体の存在は認めているのですが、それら意思や感覚はすべて心理的な現象であり、物理的な現象ではありません。それらが目の前の自らの身体とコーヒーカップに伴って存在するという事実は、目の前の身体が肉体としての身体ではなく、脳の活動によって生み出された言わば「見かけの身体」ということになるはずです。

 先に「色についての反例」についてお話ししましたが、目の前の自らの身体を見てみれば、肌色という色が見てとれますが、そのことからも目の前の身体が肉体としての身体ではなく、脳の活動によって生み出された見かけの身体であることが分かるかと思います。もっとも、それだけの理由で納得いただけるとは思いませんが。


(5)「見える」とは何か?

 「見える」という言葉は「見る」という言葉と対をなします。つまり、「見ることで見えるようになる」ということです。「見る」の意味は先にもお話ししたように単純明快です。物質の世界の対象に肉体としての身体の眼を向けることが「見る」という行為であり、意味でもあります。しかし、目の前に見えている世界で「見る」という言葉を用いるには十分な考察が必要です。何故なら、目の前に見えている世界は脳の活動によって生み出された世界、つまり「見かけの物質の世界」だからです。

 更に目の前に見えている自らの身体も見るという行為の結果、脳によって生み出された「見かけの身体」です。見かけの身体には眼の機能は備わっていません。鏡を見れば眼が見えるではないかという反論もあろうかと思いますが、それは見るという行為によって現われた見かけの眼です。当然のことですが、見かけの眼に見るという機能は備わっていません。従って、「目の前に見えている世界では、見るという行為は有り得ない」ということになります。

 事実、「見ることで見えるようになる」ということは「見る」ことと「見える」ことの間には時系列上で前後の関係があるはずです。確かに物質の世界での行為を「見る」と定義するのであれば問題はありませんが、目の前に見えている世界で「見る」と「見える」の事象を定義するには問題が生じます。何故なら目の前に見えている世界では「見ることで見えるようになる」というよりは「見えている対象を見ている」ことになり、そこには時系列上での前後の関係が生じていません。

 また「(2)「見る」と「見える」の2つの動詞」の項で、「何を見ていますか?」との問いに「目の前のコーヒーカップ」と答え、「何が見えますか?」と問われても「目の前のコーヒーカップ」と答えるとお話ししましたが、目の前のコーヒーカップを「見ている対象」であると解釈するのは間違いで、実際は「見えている対象」ということです。

 私たちは、「目の前のコーヒーカップを私が見ている」と思ってはいるものの、実際には見ているわけではありません。「見ているわけではないのに私が見ている」という想いを何故私たちが持つのか、それは「私という存在」の本質の理解への突破口になります。ただそれは今回の論文の主題ではありませんので、上述の論文「心はどこにあるのか?」の第3章第3節、あるいは「私とは何か?」の§4−1を参照していただければ幸いです。

 同様に「見える」という動詞も「私にとってコーヒーカップが見える」ということで、「私」という想いがついてまわりますが、この想いが「見える」という意味を分かりづらくしています。

 では「見える」とはどのような意味を持つのでしょうか。これまでの話から分かるように、目の前に見えている世界は脳の活動により生み出された世界ですから、それを「見ている」わけではありません。先にも記したように、「見える」ということは「見る」という行為と対をなし、「見ることで見えるようになる」と一般常識では考えられています。しかし実際は「見ているわけではないのに見えている」ということです。その事実からは次のような結論が導かれることになります。つまり「脳の活動によって生み出された対象」が「私が見ている」と思っているところ、「私に見えている」と思っているところに「存在する」ことが、「見える」あるいは「私に見える」という意味になります。もちろん、この場合の「存在する」の意味は、物質が存在するという意味とは異なると考えています。

 先ほどの図2に当てはめて考えるならば、目の前のコーヒーカップは脳の活動によって生み出されて、「私が見ている」、「私に見えている」と思われている目の前のテーブルの正にその位置に「存在している」ことが「見える」の意味になります。

 もっともこの結論は一般常識と何ら変わりがないかに思われるかもしれません。何故なら一般常識では、私たちが目を閉じていても私たちの肉体としての身体の前に物質の世界が存在していて、目を開けることでその物質の世界が立ち現われる、と考えられているからです。確かに私たちの肉体としての身体の前に物質の世界が存在しているというのはその通りですが、目を開けることでその物質の世界が立ち現われるということはありません。

 私たちの目の前に広がる世界は見かけの物質の世界であり、目の前の身体は見かけの身体です。目を閉じているとき、見かけの身体の前に物質の世界が存在しているわけではありませんし、見かけの物質の世界が存在しているわけでもありません。それにもかかわらず、見かけの身体の前に物質の世界が広がっていて、目を開けることでそれが見えるようになると思い違いをしているのです。度々の繰り返しで恐縮ですが、目の前の世界は脳の活動によって生み出された世界です。目を閉じることで目の前の世界は一旦消失し、目を開けることで脳の活動によって再び目の前に生み出されるのです。

 「見るという行為がないにもかかわらず見えている」ということは、対象が脳の活動によって生み出され、正にその位置に「存在している」ことが「見える」の意味になります。この事実は認識という問題につながる話になりますが、本稿の主題と外れるので割愛します。詳細は前述の論文「心はどこにあるのか?」の第4章第2節で詳しく説明しています。参照していただければ幸いです。

 哲学者のジョージバークリー(George Berkely)は観念論の立場から「存在するとは知覚されることである」という言葉を残したと言われています。私は哲学ではなく、科学の立場から話を進めているので物質の世界や肉体としての身体が存在するという立場であり、観念論の立場には立っていません。彼の主張に対してコメントするつもりは毛頭ありませんが、しかし彼の言葉には関心があります。彼の表現を真似れば「見えるとは存在することである」ということになるでしょうか。先にも記したように、この場合の存在の意味は物質が存在するという意味とは異なると考えています。


(6)あとがき

 「見える」という意味についてお話してきましたが、如何でしたしょうか。多分大多数の人が「そんなことはあり得ない」と思われたことと思います。ただ話は単純です。網膜に外界の像が結ばれることがなければ目の前の世界が見えるようにはならないという事実です。問題は網膜に結ばれた像と目の前の世界がどのように関連付いているかということです。

 これほどまで広大な広がりを持つ目の前の世界が脳の活動でどのようにして生み出されるのか、また目の前の自らの身体が見かけの身体であるなど納得がいかないことが多いでしょう。ただ私たちの生理学的な側面である遺伝の仕組みや免疫系の仕組みが如何に巧みに構成されているかを考えれば、それほど荒唐無稽な話ではないことがご理解いただけるのではないかと思っています。

 例えば、私たちの身体はおよそ60兆個の細胞から成り立ち、それらによって様々な臓器が構成されています。そしてそれら臓器は神経、血管などで有機的に結びついています。その膨大な数の細胞と様々な機能を有する臓器がわずか1個の受精卵から派生するとは驚くべきことです。更に、それを可能にする遺伝情報はわずか4個の塩基の組み合わせで決まり、かつ塩基が2重らせん構造をして遺伝情報を伝えているという方策は驚くべきシステムです。このように、私たちの身体の仕組みは私たちの想像を超えていますが、同時に私たちの心の世界も私たちの想像を超えるものであるように思えます。

 これまでお話した内容は一般常識と真っ向から対立します。ただし、これまでの結論が正しいとして私たちの日常生活に何か変化が生じるかというと、そんなことはありません。それだけ納得することが難しい話だと思っています。論文のサブタイトルを「脳によって仕掛けられた難解なトリック」とした理由です。

論文の最初で「脳の活動によって生み出された世界を心の世界と定義する」とお話ししました。それに対しても異論があろうかと思います。しかし、目の前の対象に自らの感情や思いが投影されていることを考えていただければ、納得がいくのではないでしょうか。たとえば、目の前に子猫や子犬が現れれば、可愛いという思いが自らの心に生じるとともに、目の前のそれら子猫、子犬そのものが可愛いという思いを伴って存在していることが分かります。逆に、目の前に巨大な虎が突然現れて牙をむき出して吠えれば恐怖を感じることでしょう。そしてその恐怖は虎そのものに重なっていると感じられることでしょう。体験したくはありませんが。

 人間の情報処理の仕方の一つである特徴抽出を真似ることで、AIの情報処理能力は格段に進歩しました。一方、画像生成AIや言語生成AIなどAI技術が急速に進んできています。今後は逆に、人間の情報処理の仕組みをそれらAI技術から学ぶようになる時が来るかもしれません。

 またこれまでは、目の前に見えている世界がどのような性質を有しているかが議論されてきましたが、これからは目の前の世界がどのようにして生み出されるのかという観点から研究する必要が出てくるように思います。

 「見える」という一見単純そうな問題にも、実は複雑な背景があります。その理解が心の世界の探求への出発点になります。もし一般常識と異なる心の世界について関心をお持ちになりましたら、以下の論文を参照していただければ幸いです。なお、URLでうまくアクセスできないときは、サブタイトルを含めたタイトル名で検索していただければスムーズにアクセスできるかと思います。


論文のアドレス


日本語版:心はどこにあるのか? 脳によって仕掛けられた難解なトリック

URL:  https://www.where-mind-j.com (A4版110ページ)

(注:論文はPDFファイルで110ページとかなりの分量ですが、分かり易い解説を心がけています。)

English version: Where is the mind?  A hard trick set by the brain

URL:  https://www.where-mind-e.com (110pages on A4 paper)


日本語版:私とは何か? 脳によって仕掛けられた難解なトリック (A4版30ページ)

URL:  https://www.what-am-i-j.com (A4版30ページ)

(注:論文「心はどこにあるのか?」の第4章第3節を重点的に解説しています。A4版30ページほどで、ホームページ上で読めるとともに、PDFファイルをダウンロードしても読むことができます。)

English version: What am I?  A hard trick set by the brain

URL:  https://www.what-am-i-e.com (30pages on A4 paper)


(7)自己紹介

 余りに常識離れした話であることから、エセ科学の危ない人物の話ではないかと思われるかもしれませんので、簡単に自己紹介をさせて頂きます。私(白石 茂)は早稲田大学(東京/日本)大学院博士課程(心理学専攻)を修了し、その後都内の大学で非常勤の講師(心理学担当)を長年務めて参りました。専門教育を受けているからといってその人の考えが科学的だという証には必ずしもならない、ということは重々承知しています。ただ口はばったいことを言うようですが、客観的な事実の積み重ねで論理を展開する訓練は積んできたつもりです。批判的に原稿を読んで頂き、感想や反論を「3ご意見・ご質問」から送っていただければ幸いです。



なお原稿はPDFファイルでもアップしてあります。「2原稿のダウンロード」に移動していただく他に、次のリンクをクリックしていただくことでもPDFファイルをご覧いただくことができます。

PDFファイル「見えるとは何か?」へのリンク


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